ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第四十四話「御前会議」マザリーニとの打ち合わせが長引いたリシャールに合わせて『ドラゴン・デュ・テーレ』はトリスタニアを夜半に出航し、明けて翌日昼、ようやくセルフィーユへと到着した。ほぼひと月振りの帰国である。 国境を越えてすぐラ・ラメーに詫びを入れ、リシャールはアーシャで城を目指した。 「カトレア! マリー!」 「おかえりなさい、リシャール!」 「とうさま!」 もちろん二人は元気そうで、リシャールは走ってきたマリーを抱き上げ、カトレアとキスを交わした。 無事の知らせは今朝届いたばかり、ごめんと謝るしかない。無事これ名馬と言い訳したいところだが、心配をさせたことには変わりなかった。 跪いていたクリスティーヌ夫人の手を取り、ペルスラン殿もどうぞと声を掛ける。 「クリスティーヌさま、ペルスラン殿、ご心配をお掛けしました」 「無事のご帰国、お祝い申し上げます」 「陛下、アルビオンは大きな戦になっていると聞こえております。 お怪我もなくお帰りになられ、ようございました」 マリーを抱いたまま頭を下げると、二人からは微笑ましそうな顔で会釈された。 「今朝知らせが届いてからは、街も大騒ぎなんですって」 「おまつりなの!」 「ええ、そうね」 「……」 これだけ心配して貰えるのだからありがたいが、内実を知らせればがっかりされるのではないだろうか。実態は、危険を避けてロンディニウムにじっと篭もって動かなかっただけなので、照れくささが先に立つ。 「わたしとマリーだけが独占していたら、怒られてしまうわ。 さあ、『陛下』?」 「そうだね。 続きはまた、帰ってきてからにしよう」 名残惜しいが、一息ついている暇もない。 「エルバート殿! 重要な報告もありますので、あなたも会議に出席していただけますか?」 「御意!」 リシャールは再びアーシャに跨り、エルバートと並航して王政府を目指した。 「陛下!」 「おかえりなさいまし!」 「無事のご帰還、おめでとうございます!」 「万歳!」 王政府の入り口前にさえ人集りが出来ていたのには驚いたが、ともかく自分と一行の帰着を知らせる緊急の布告を出して騒ぎを収める。ついでにアルビオン王国の艦隊がスカボローを押さえたことも記し、彼らのお陰で帰国できたのだと提灯を一つぶらさげておいた。 溜まった書類は後に回してそれらを手早く片付けると、アーシャに手紙を預けて空席で陸軍司令部に飛んで貰い、レジスを乗せて戻って貰う間に御前会議の準備をさせる。アルビオンの大使館にも人を送り、代理大使を呼び寄せた。 いましばらくはセルフィーユまで叛乱の飛び火がないとわかっているからこそ、会議などと言う悠長なことを出来るのだ。 「陛下、レジス司令官に続き、ただいまラ・ラメー長官とアンドリ隊長も到着なさいました」 「ありがとう」 エルバートを伴い、一番大きな会議室へと足を向ける。 重要な会議の場合、王政府四府一院から空席の外務卿以外の閣僚四人、軍部からはラ・ラメー、レジス、ジャン・マルク、そこにマルグリットが加わった。今日のように、内容に応じて他の関係者が呼ばれることも多いが、基本的に諸侯時代と同様の型式である。 「皆には心配を掛けました。国も無事で何よりです。 ……本来ならば口上の一つも述べたいところですが、前置きをしている余裕がありません。 今後の大方針について、皆にも確認して貰いたいと急遽集まって貰いました。 なお本日は、アルビオン王国より派遣されて滞在中のエルバート・オブ・ブレッティンガム男爵閣下、メイトランド代理大使殿、そして王立空軍のウォーレン海尉にもお話に加わっていただきます。 お互いに礼儀は必要ですが、内容には遠慮せぬように。これはアルビオンの方々にも申し上げておきます。 同時に内容の口外も、この場で取り決められたもののみとします」 全員が宣誓をして、会議は開始された。 「まずは現状の報告をしておきます」 リシャールは外遊の方は短く端折って、反乱が起きてからの流れを簡単にまとめ上げた。 ロンディニウムが奇襲を受けてクロイドン軍港が半壊し、反撃に出た討伐艦隊がスカボローを押さえたところまではこちらも把握している。 ジェームズ王の無事と、摂政皇太子ウェールズが総指揮を執っていることは、セルフィーユで任務をこなしている二人を安心させた様子だった。 「ロサイスに端を発したこの叛乱、いまのところ貴族連合レコン・キスタ側の優勢です。 ……その規模は、王立空軍の半数を超えるだろうと見積もられます」 「まことでありますか!?」 「そんな……」 エルバートとメイトランドは、揃って目を見開いてる。リシャールも話を聞いて、似たような顔をした覚えがあった。 「間違いありません。 ……ウォーレン海尉、お願いします」 「はっ。 リシャール陛下のお言葉通り、王立空軍本国艦隊の一部がロサイス叛乱の主体となりました。その後、ロサイス残存の艦隊はレコン・キスタ革命艦隊と名を変え、叛乱軍に与しております。 現在の王立空軍が掌握する艦艇は、往事の二割にも届いておりません」 「馬鹿な……竜騎士隊はどうなっているか?」 「第一竜騎士大隊は艦艇の不足を補うため、王都の防備に当たっております。 ロサイスの第二大隊は……おそらく、叛乱に加わっているものと思われます。 ダータルネスの第三大隊は、半数が寝返りました」 「エルバート殿、私の知る限りでは、陸の方でも四個連隊が王都を守り、募兵と諸侯軍の動員も始まっています。 ……但し、諸侯軍の方はよい状況ではありません」 「ロンディニウム出立前の時点では、参集した諸侯の軍全てを集めても、連隊規模に届かなかったかと……」 「諸侯の数割が叛乱側に寝返るか、あるいは個々に潰されたと思われます」 「それではアルビオンは……!」 驚愕の表情で固まるエルバートに向き直り、決して望まぬことながら追い打ちのように口を開く。 「諸国会議で結ばれた援軍の約束は、反故になるだろうと予想されます」 「まさか!?」 リシャールは静かに首を横に振った。 「ガリアとゲルマニアはその方が得でロマリアはほぼ無関係、トリステインは出してくれるにしても共倒れ必至と、ジェームズ陛下が御自らお断りになられました。 援軍については、昨夜会談したトリステインのマザリーニ宰相閣下だけではなく……」 ……その名を口にするのは辛い。 「ジェームズ一世陛下も、同じ見解をお持ちでいらっしゃいます……」 アルビオンの三人のみならず、セルフィーユ側の列席者からも、流石に溜息が漏れ出た。 会議は半刻ほどで、一度目の休憩を入れることにした。 皆が一様に衝撃を受けたのを見て、空気を入れ換える必要を感じたのだ。 両の手で顔を覆っている者、やりきれない表情で椅子に沈み込む者、様々だった。 茶杯が新しくなる合間に、ウォーレン海尉がエルバートに何かを渡している。 「男爵閣下、こちらは閣下宛の封緘命令であります。 ウェールズ殿下より自分が直接お預かりいたしました」 封緘命令は、命令が封書になっていて、日付、場所、戦闘の勝敗、任務の成否など、条件が満たされないと発効しない類の命令が書かれている。内容は知れないが、禁を破って開封すれば厳罰の対象となる厄介な命令書であった。 「ご苦労、海尉。 ……ああ、一つは条件が通るな」 数通の命令書から一通を開けたエルバートは、目を通してふむと頷いた。中からもう一つ、封書が出てきた様子である。 「ウォーレン海尉、君も読みたまえ」 「お預かりします。 ……了解いたしました。 只今より、閣下の副官を拝命いたします」 「よろしく頼む。 メイトランド卿、君にも朗報だ」 「男爵閣下!?」 「リシャール陛下、失礼いたします!」 「エルバート殿?」 エルバートは開かれた命令書に入っていた封書をリシャールに捧げ、直立不動で敬礼した。渡されたと言うことは中を見てもいいのだろうが、とりあえず彼を注視する。 「本日付けでメイトランド代理大使を正式な大使に任じ、自分は大使館内に軍務府配下の連絡事務所を新たに開設せよと命令を受けました。ウォーレン海尉は副官として、今後は私の直属となります。 お渡しした封書は、封緘命令に同封されていたウェールズ殿下の親書であります」 そんな話は聞いていないなと首を傾げつつ早速封を切って読み進めると、詫びの言葉と共に、設立の狙いと彼の心の内が書いてあった。 ウェールズに曰く。 『万が一の場合、連絡事務所は敗残兵の受け皿として機能させたいので、面倒を見てやって欲しい。 こちらが倒れた後、レコン・キスタがトリステインに手を伸ばすことは確実だ。 そのトリステインも相当に厳しいかと思えるが……マザリーニ宰相と共に、アンリエッタの支えとなってくれれば嬉しく思う。 セルフィーユは小さな国だが、君の知恵はそこに収まり切らぬものと私は信じている。 ……もう一度会って酒杯でも交わしたかったが、それは叶いそうにないな。 一方的にこんな手紙を押しつけた無礼は、是非とも許して貰いたい』 どうやらセルフィーユは、アルビオンが滅んでトリステインが戦火に曝された場合の後備えとして、期待されているようだった。追記でマスケット銃を減らして散弾砲を納入して欲しい旨が記されており、ロサイスが奪われた影響かと頷く。 それにしてもだ。 ああ、やはり彼はジェームズ王の一番弟子だったかと、リシャールは大きく溜息をついた。 しかし……友達だと言ったのはそっちだろうに、何とも勝手な言いぐさである。 「……事務所の件を頼むと、殿下はお書きになられていました。 無論、設立は了承しますが……何か困り事があった場合、私か宰相に相談して下さい」 「は、ありがとうございます」 後備えの件は秘したまま、リシャールはそれを認めてフレンツヒェンにも協力を命じた。 皆の顔色を見て、頃合いもいいなと断ずる。 彼らとて、リシャールと共にさんざん世間に振り回されてきたのだ。 少しは世の理不尽に慣れていても、不思議ではなかった。 「では……再開しましょうか」 会議を再開してすぐ、リシャールはもう一刀の大鉈を振り下ろすことにした。 「さて、事はアルビオンだけの問題ではなく、トリステインも割と切羽詰まった状況にあります。 昨夜、マザリーニ宰相とも確認しましたが、レコン・キスタは表看板を鵜呑みにするなら聖地を目指していますから、通り道にあるトリステインは次の目標となるでしょう。その次がガリアかゲルマニアかはわかりませんが、トリステインだけは間違いなく攻められるはずです。 問題は……これは私のみならずトリステインでも把握していますが、トリステイン王国は経済的に疲弊しており、援軍どころか王軍の完全充足も苦しい状況下にあるということです。 ご存じのように、アルビオンが戦乱で荒廃している、あるいは今後更に悪化するとしてもトリステインに倍する国力があり、特に……空軍力では大きく上回っていますから上陸は阻止できず、好き勝手に暴れられた後でトリスタニアの喉元に杖を突きつけられるのではないかと思われます。 ちなみに両国が倒れた場合、我が国がどうなるかは……皆も想像がつきますよね?」 無論、セルフィーユは人口数千の小国で、大国同士の戦争に於いて大きな役割を果たせるわけもないのだが、だからと何もしなかったり、日和見を決め込むことも出来なかった。そんなことになれば、両国が倒れる前に見放され、先に滅ぶことは必至、今日はその状況を伝える為に会議を開いたのである。 「……続けます。 当然、トリステインもこの状況を黙って見過ごすわけはなく、なんとかしてガリアまたはゲルマニアの援軍を得るために努力すると、マザリーニ宰相は仰っていました。 アルビオンと違いガリア、ゲルマニア両国はトリステインと陸続きですから、その点を上手く煽る方向で話をまとめたいと仰っていましたが、これもどうなるかは今後次第です」 援軍を送れと頼めば、必ず送ってくれるわけではない。そんなことはアルビオンの一件で分かり切っている。代価として領土や財、その他の何かを支払うか、あるいは危機感を煽ってもいいだろう。セルフィーユがアルビオンに力を入れるのと同様に、最低限、何某かのきっかけや理由が必要だった。 「以上がロサイス叛乱に端を発したレコン・キスタの影響と現状、その展開の未来予想ですが、セルフィーユはまずもってアルビオンに踏ん張って貰わねばならず、続いてトリステインに耐え抜いて貰わないといけません。何も言わず、即座に援軍を出してくれそうな国がこの両国しかない我が国の場合、両国が滅びた時点でおしまいです。 ガリアは交渉から入らねばならず、ロマリアは遠すぎるので慮外としても……ああ、言うまでもないですが、ゲルマニアに頼ることは全く考えていません。 うちが援軍を求めるなど、手の込んだ嫌がらせか、喧嘩を売っているようにしか見えませんのでね」 ……ガリア王お墨付きの王権あり十五年後に適齢期の娘込み三百二十アルパン新教徒つき、お安く売ります。 諸国会議でセルフィーユをだしにガリア王から横っ面をはり倒されたゲルマニア皇帝は、果たして何と答えるやら。どうせレコン・キスタに食われるのだろうと、新教徒の皆殺しを条件にロマリアから密約を引き出して国土を引き継がれても不思議ではない。その頃には、一番文句を言いそうなトリステインも滅びているだろう。 「リシャール陛下」 「はい、ブレッティンガム男爵?」 「我が国を、あるいはトリステインを見捨てて生き残る方策はないのですか? 国の滅びにセルフィーユを付き合わせたとなれば、恥の上塗りとなります」 エルバートは、誰もが言えぬと見て自ら口火を切った様子だった。 「共倒れになるぐらいなら他の手だてを……とも考えましたが、トリステインを滅ぼしたレコン・キスタから降伏の使者が来れば頷いても突っぱねても詰み、トリステインが耐えきっても裏切った小国は見捨てられて詰みます」 唇を噛んで俯いたエルバートを気遣いながら、リシャールは続けた。 「このように、我が国は平時と言わず戦時と言わず、まともに頼るべき相手がアルビオン、トリステインの両国しかないのです。 そして……当たり前ですが、その危機に座して嵐の過ぎ去るのを待つような国が、国難に相対したときに手を差し延べて貰えるはずもありません。 既に我が国の方こそ詰みの一手が差し込まれていることは、これまでの説明でおわかりかと思います。 つまり、現在迫っているレコン・キスタの危機に両国を援護し、耐えきって貰うことこそが、セルフィーユを長生きさせるためには最良の選択肢となるわけです。 ……ここまではいいですか?」 セルフィーユがトリステインやアルビオンに互する大国ならば、全く違う選択もあっただろうが、そこはもう考えても仕方がない。 長い前置きになったが、この前提は共通認識として全員に通しておかないと、誤謬が発生する可能性もあった。アルビオン側出席者には耳の痛い内容も含まれていたが、負け戦が確定していようといまいと、単に国同士指導者同士の仲がいいからと援護するわけではなく、そこにこそセルフィーユの存亡が懸かっていることを知らしめたのである。 ……諸国会議の結末と矛盾するようだが、どのみちセルフィーユから裏切ることなど、出来はしないのだ。 「我ら一同、陛下のお言葉を是と致します」 全員の表情を確認したフレンツヒェンが片手を挙げて宣誓し、場をまとめた。代案もないだろうが、小国の立場というものがどれほど危ういかは、リシャール以上に彼らの方が感じているのかも知れない。 「リシャール一世陛下とセルフィーユ王国のご判断に、在セルフィーユのアルビオン王国人を代表して感謝いたします」 エルバートが締めくくり、リシャールは二度目の休憩を宣言した。 ……この御前会議、実は議決がない。 絶対君主制度下の御前会議は、ホームルームで教師が生徒に決定事項を伝えるのにも似ている。反論も意見も許されているが、王が翻意せぬ限り、決定事項は決定事項のまま動きはしない。 リシャールの方でも今日の会議は多少以上に気を使っていたが、トリスタニアからの帰路でじっくりと考え抜き、なるべくセルフィーユが良い未来をつかめるように知恵を絞った集大成であった。感情的な反論などは理詰めで押さえるつもりであったし、彼らにも自身の命に関わる選択だとわかるよう、丁寧に現状を伝えている。 そのようにして国王が決めた基本方針は、満場一致で『納得』された。 では両国の援護に何が出来るかと言えば、実は手札が少なすぎるセルフィーユであった。 再びの休憩の後、今度は出席者の側にセルフィーユの現状と余力について聞き取っていく。 「宰相、セルフィーユに出来る最良の支援は何だと考えますか?」 「はい、予算の余裕より各種物資を調達、アルビオンに融通することが一番と考えます。 戦が続けば続くほど食料と武器弾薬、医薬は不足し、何があろうとも確実に必要になりますからな」 「確かに……。 複雑なことは元より不可能ですから、堅実かつ妥当な線ですね」 「ですが陛下、アルビオンの余命で、その先の対応が大きく変わらざるを得ません。 ……今年度中は命を保ちましょうか?」 フレンツヒェンの言葉にエルバートは苦渋の表情で黙り込んでいるが、彼も……頭ではわかっていてもやりきれないのだろう。 「最低限、今年いっぱいは大丈夫と判断できます。 ですが王都が陥ちればどれほど粘っても半年は厳しいだろうと、マザリーニ猊下は口にされていました。 今のところ、スカボローとサウスゴータを通る線は辛うじて確保されていますが、レコン・キスタの陸軍戦力の情報がもう少し得られないと、判断できないですね」 規模がわかれば陸軍が陥落時期の予想を立ててくれるはずで、それがなくともなんとなく察しはつけられる。空は確実に負けているが都市の占領には陸軍が不可欠で、両者が揃わないとロンディニウムのような大都市は陥とし難い。 「ポワソン男爵、手配はそちらの商会を通した方がよいと思うのだが、何かありますかな?」 「では、こちらでも専任の担当者を出すことに致します。 ブレッティンガム男爵様」 「……はい」 「品目や数量などの調整にご協力いただいても?」 「ええ、はい、もちろんであります」 「よろしく願いますぞ。 さて、それを送る算段ですが……空海軍司令長官殿?」 「陛下よりご裁可が頂戴できれば、いつでも。 但し、出せるのは一隻だけですな」 「ほう?」 ラ・ラメーはフレンツヒェンへと重々しく頷いて、リシャールに向け姿勢を正した。 「陛下、空海軍は三隻あるフリゲートのうち、最低限一隻はセルフィーユに常時張り付けるべきと判断します。 支援はやがて、レコン・キスタに知れましょう」 間違いなく知れるだろうなと、リシャールは頷き返した。既に知られているかも知れないが、これからはそれ以上のことをする。対策は必要だった。 空海軍と言えば、流石に百数十名で三隻の『軍艦』を動かすのは無理だったなと、ラ・ラメーを見やる。……先日の曳航作業も、大変と言えば大変だったのだ。 「……艦長」 「はい、陛下?」 「特別に予算を計上しますので、空海軍の増員を認めます」 水兵一人を一年間雇用すれば、給与の他にも装備や食費などで年に百数十エキューが飛んでいく。物資の調達と現在の余剰資金を考えれば、百人ぐらいが限度だろうか。さらさらと白紙に命令を書き付け、艦長に示す。 「……っ! これはまた、大盤振る舞いですな」 「あの人数でまともに動かせと言うのは、流石に無理の言い過ぎだと常々思っていました。 ですが、この状況では予算を惜しんでいられません。 もちろん、期限はこの戦役が終わるまでとします」 「ご命令、謹んでお受けいたします」 勝った! ……と言わんばかりの表情で、ラ・ラメーは敬礼した。つくづく有事の人材なのであろう。だが今は、それが非常に重大な意味を持っていた。 「レジス司令官からは何かありますか? 今後陸軍と近衛隊には、内向きに気を配って貰わねばなりません。 旗色が明確ならば、距離はあっても裏仕事に長けた連中ぐらいは送ってきて不思議はないと思います」 テロでも起こされては、支援するどころではないのだ。セルフィーユがアルビオン向けの武器を製造していることは、世間に広く知られている。 「陛下、陸軍は全兵力を送ったとて、間違いなく戦況には影響しません。 正直を申せば……嫌がらせどころか、戦場で認識されるかどうかも怪しいと考えます」 「ええ、それはもちろん」 功を焦るでもなく冷静な判断だと、リシャールはレジスを見やる。 数千数万の大軍が行う会戦に、特殊な訓練を積んでいるわけでもないセルフィーユ陸軍の全軍七十人を送っても、旗を立てるぐらいしかやることがないはずだった。 「ですが、戦局の外にあってある程度の時間を頂戴出来るならば、お役に立てることもあります」 「ほう?」 「王政府、空海軍がアルビオンの正面に立つなら、こちらは裏方として各国に広く人を送り、情報の収集に当たらせましょう」 「……たしかに、必要ですね」 「空海軍も王政府も、今後は手一杯になるでしょうな」 情報部署の必要性は知っていたが、これまではセルフィーユの立ち位置を考慮に入れて一定の枷をはめていた。しかし、状況がこうも薄暗い方向に走ってしまっては、基準も見直す必要がある。 ここでフレンツヒェンが、片手を挙げて発言を求めた。 「失礼。 ……総司令官殿は『長い耳』をご存じですかな?」 「『長い耳』? 噂ばかり聞くのに実態のわからぬ、ゲルマニア帝国政府直属のあれですかな?」 「正にそれです。 『長い耳』は各地の情報を収集する密偵の集団でありますが……実は、実態のないことこそが要であります」 フレンツヒェンの説明によると、密偵でありながら密偵ではないという、外から見れば実に扱いの困る相手らしい。宰相の口からさらりと語られている内容は、ゲルマニアの重大な国家機密のような気もするが……いまはいいだろう。 「彼らは間違いなく密偵ですが、いかにも密偵らしい活動は国内外に限らず一切行っておりません。荒事は軍部や皇帝直属の部署が担当します。 それ故に、難儀するのです」 「ふむ?」 「『長い耳』は旅人であったり、商人であったり、時には外遊する放蕩貴族として、どこにでも赴きます。 ただただ足を使って噂話を集め、実際に現地を見聞きすることに終始するのです。 ……おわかりだろうが、これでは罪は一切なく、捕まえたところで密偵かどうかさえ不明。一人一人の知る情報は現地の者なら知る内容ばかりで、大した意味がないようにも思えます。 ところが彼らの集めてきた情報を一定のふるいにかけて共通の事項を見つけていくと、面白いほど現地のことが見えてきますな」 「なるほど、我らにもその『長い耳』たれと?」 「はい。 元より国力が違いすぎますから、宣撫や流言を含めた本格的な工作活動など不可能。 ならば効果的な一点に絞り込む方がよいでしょう。 極端ながら……深い探りを入れたことで、相手方から理不尽な難癖を付けられぬとも限りませぬのでな」 顎に手をやって考え込むフレンツヒェンに、確かにうちは密偵を出しても言い訳が通るような大国ではないなと気付かされる。相手が送ってきたからと、捕らえることさえ拙いかもしれなかった。……その場合は丁重にお帰りいただくか、余程上手く闇に葬るしかない。 「いっそ相手国にも連絡を入れて、協力を求めておきましょうか。 アルビオンの戦乱を理由に、各地の経済状況を見極めるのに人を出すというなら理由も立ちます。私は幸い商売好きで知られていますし、下手な偽装なら最初からせぬ方がましでしょう。 一時的に軍籍からは外れて貰い、王政府の官吏……いや、セルフィーユ家の家人として方々に出て貰うのが無難かな?」 「国力差から言えば、言い訳は最初に用意しておくのが肝要ですな」 「人選は早急に済ませましょう。 陛下、対象はトリステイン、ガリア、ゲルマニア、そしてクルデンホルフ。 以上四カ国にてよろしゅうございますか?」 「その線でいいでしょう。 密偵と言うよりは駐在武官か連絡員に近いかもしれませんが……。 ああ、上がってきた情報は、エルバート殿にもそのまま流すよう手配して下さい。 アルビオンとセルフィーユでは、見えてくるものが違う可能性もあります」 「御意」 これでセルフィーユの今後……いや、未来はほぼ決まったかと、出席者の顔を順に見る。 王政府とラ・クラルテ商会は物資の手配。 空海軍はその輸送。 陸軍は治安強化と情報収集。 セルフィーユの役回りはともかく時間を稼ぐこと、これに尽きた。 アルビオンの滅亡を少しでも先に引き延ばし、トリステインが列強の援軍を引き出せるまで粘れば、国の命運は保たれる。 清水の一滴は飲むには足りなくとも、渇いた喉を一時的に潤すことは出来るのだ。 「さて、これにて閉会としますが……。 間違っても、先の先を見据えていると悟られぬように。 アルビオンへの支援も、表向きは少年王が義憤に駆られて命を下し、臣下が右往左往している……ぐらいの陳腐な理由の方がいいでしょうね」 ぶっと吹き出したエルバートが、口を覆って俯いている。 とぼけた様子でにんやりと笑顔を作り、リシャールは会議を締めくくった。 ←PREV INDEX NEXT→ |