ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第四十五話「動く者、動けぬ者」




「少し落ち着いたと思ったら、またぞろ忙しくなりそうですな」
「なに、忙しいのはいつもの事ではないですか」
「そうですわね」
「それに忙しさにかけては、我らが陛下こそ、我が国で一番お忙しくていらっしゃる」
「いかにも。
 皆様方、臣下が先に泣きっ面を晒すわけにはいきませぬぞ」
 会議を終えてそれぞれの仕事に戻る出席者を見送り、リシャールはフレンツヒェンと僅かに打ち合わせをしてから執務室へと戻った。
 いつもの帰城にはまだ時間があったので、少しでも書類を片付けたいところである。そうでなくとも一週間少々の予定がひと月近い不在で、こちらが終わらぬと平常の業務が滞ってしまう。ラ・ヴァリエールやアルトワに無事を知らせる手紙も書かなくてはならないが、そちらは明日にさせて貰うことにする。王都から連絡はされているはずだが、礼儀の問題もあった。
 久しぶりの政務と慣らしも兼ねて、出生の届けや各種認可状などの深く目を通さなくても良い書類束を選んで機械的に署名を入れながら、これで良かったのだろうかと自らの選択を振り返る。
 だが、答える者は自らの心の内にさえもいなかった。

「帰ったばかりで疲れてるのに、無理はしないでね?」
「うん。
 ……カトレアとマリーの顔見たら、元気になった」
 たっぷり家族と過ごして精気を養うと、翌日からはもう振り返らなかった。アルビオンが大変そうなので応援するとしか、家族には告げていない。
 書類束を崩す傍らに、せねばならない手配りは山ほどあった。
 王政府とラ・クラルテ商会は会合を持ち、確実に出せると判断した予算を既に動かしている。国内分の街道工事が完遂して余った人手はそのまま倉庫の建設と荷役夫に吸収して、それでもまだ募集をかけている有様だった。同時にラ・クラルテ商会は新たな食品加工場をサン・ロワレに開き、堅焼きビスケットの量産を本格化させる様子だ。
 エルバートには、空港近くに正式な公邸を一つ用意した。政府高官格の賓客として手厚く扱うと共に、敗残兵が大挙押し寄せた場合の窓口にもなるよう配慮している。
 空海軍はこちらで水兵の手配が付くかと言えば難しく、ラ・ロシェールにいるビュシエール副長に連絡を取り、宿屋の一部屋を臨時の募兵事務所とする様子だった。
 陸軍から選ばれた四組十余名は一度退役し、そのままフレンツヒェンが預かっている。宰相として彼が忙しい昼間はラマディエ市中で実地訓練、夜は講義と、ひと月ほどかけて仕事を詰め込むと聞いていた。
 丁度こちらにやってきたアルビオン航路の商船『タモシャンター』には、この状況下、沈まれては寝覚めが悪いので、今後しばらくはセルフィーユを訪れずとも契約不履行にはせぬと言い渡した。王党派の荷を運んでいては、言い訳も出来ないだろう。
 フロランには散弾砲の量産と同時に、新型銃把を装備したマスケット銃と短銃の製造を命じた。工員の比率はそのまま数量になって現れるが、八対二で散弾砲に傾注させる。
 国内は麦の種蒔きで忙しい最中だが、宣戦布告も行っていないし支援についても正式な公布はしていなかった。セルフィーユ家と王政府が王党派寄りであることは隠してもいないものの、ウェールズ皇太子は公式にセルフィーユを来訪した国内外の賓客で唯一の王族であったし、大使館もあれば月一便ながら航路もあり、アルビオンは旧母国トリステインに次いでこの小国にも目を向けてくれていると肌でわかる国であった。おかげで国内の世論も、煽る前から王党派寄りである。
 新任のトリステイン大使と挨拶を交わし、娘の二歳の誕生日を祝い……そのようにして二週間ほどが駆け抜けていったが、準備が整った第一陣を送り出す頃、リシャールの耳にサウスゴータがレコン・キスタの手に落ちたと新たな情報が入ってきた。

 天気は上々だが、気分は晴れやかではない。
 空港の『ドラゴン・デュ・テーレ』は既に大半の荷役を終わり、船腹には散弾砲から個包装した副菜つき堅焼きビスケットまで、各種軍需品が詰め込まれていた。
「艦長、ご無事の航海をお祈りします」
「は、ありがたくあります」
 第一便はラ・ロシェール経由で最低限スカボローまでは向かい、両軍が再編期で戦況が安定しているようなら、大回りでロンディニウムに到達する予定だった。流石に戦場のど真ん中にフネをやる気はない。この作戦は、出来る限り長く続けることこそが肝要である。
「スカボローはまだ無事のようですから、基本的に予定は変えずともよいでしょう」
 砲員を多少なりとも増やしたおかげで、一度に開ける砲門が数倍になった『ドラゴン・デュ・テーレ』の艦上、ラ・ラメーは嘯いた。これまでは敵のいる方角に砲員が集まってそちらにある砲を操作するという、他国に聞かれれば笑われるか無言で聞かなかった事にされるような状況であったところ、それが多少はましになっている。
 二週間で百人の増員は無理だったが、経験者は早速『ドラゴン・デュ・テーレ』に配属され、新人は国に残る『サルセル』で訓練に励んでいた。
 見送りに来ていたリシャールもその他の者も長官本人が行くだろうなとは思っていたし、実際その通りでも、それは口に出さぬのが礼儀というものである。
「サウスゴータを陥としたレコン・キスタの軍勢は、そのままロンディニウムへと向かうでしょうか?」
「おそらく、間違いないでしょう」
「レジス殿?」
 同じく見送りに来ていたレジスが、腕を組んで首肯する。
「陛下、兵力の集中は兵法の基本などと申しますが、それは作戦段階の話であって、補給や運用の面から見ますと、陸軍は空海軍以上に集中した軍の維持に苦労します。ロンディニウム制圧後、早期に分散配置させたいところかと考えます」
「なるほど……」
「それに、スカボローは軍港施設もありますしロサイスに次ぐ大陸への玄関口でありますが、サウスゴータが押さえられてはその価値が半減したとみるべきです。
 士気の面でも、ロンディニウムが陥落すればレコン・キスタの勝利は確定的、戦局は掃討戦に移行しましょうから、相手方にしてみれば後回しが妥当かと思われます」
 ロンディニウムが陥ちれば、この戦は勝敗がほぼ確定する。戦力差は今以上に開き、滅亡までの時計は早回しにされるだろう。
「ですが、物資は送るべきです。
 ロンディニウムの戦況に影響出来るかはともかく、スカボローへの備蓄でも十分『その後』のアルビオンの命を繋ぐ糧になりましょうから。
 長官殿、確か『ドラゴン・デュ・テーレ』の積載量は、無理をせずとも一千樽ほどはありましたな?」
「最大限詰め込んで千五百、但しアルビオンを目指すこと、また、途中で戦闘がある可能性を考慮すると、この航海では半量の七百五十樽が目安ですな」
 船荷の計算に使われるワイン樽は一つが重さ約四百リーブル、七百五十樽なら三十万リーブルで、百四十トンほどの物資に相当した。大砲の過半が降ろされているからこその積載量で、商船ならその倍や三倍を詰めるフネも多々あるが、この危急の折、『ドラゴン・デュ・テーレ』の高速性こそが頼みの綱となる。
「七百五十樽ならば、一個連隊の消耗品約半月分に相当します。
 輜重馬車なら六十輌ほど、大したものだと思いますよ」
 今回送る七百五十樽分の物資の代金は、およそ一万五千エキューにもなった。現在も続けて海港と空港の倉庫に集積されつつあるが、この調子では街道工事どころの負担ではない。食料だけならもっと安価に済むが、秘薬や武器弾薬を送らぬわけにもいかなかった。
「この詰め込みようは、ガリアからの帰り以上ですからな。
 しかし今航海の帰り際は空荷でしょうから、また敵艦でも引っかけて参ります」
 艦長の言うことも、間違ってはいないのだ。
 フリゲート一隻で出来ることは、教えられるまでもなく想像がついた。
 しかし商船一隻、コルベット一隻を捕まえる意味はあるのだ。大事な作戦が遅れるかも知れないし、航路の混乱を誘えば動揺が広がる。叛乱全体からすれば微々たる戦果も、積み重ねれば一日二日の時間稼ぎとなろう。
 しかしだ。
「……セルフィーユ家の財布には限度がありますから、くれぐれもお手柔らかに願いますね?
 それに、この援護は続けることにこそ意義があります」
「心得ております」
 『サルセル』から一時的に大砲を融通し、明らかに前回より多くのメイジ士官を乗せて出航する『ドラゴン・デュ・テーレ』を見送りながら、リシャールは決意した。
 何と言われようが、今度こそ拿捕されたフネは売り払おう。今なら丁度、一時的に軍備を増強したいトリステインが喜んで買い取ってくれるだろう。
 そしてその代金で、アルビオンへと送る物資を買い付けるのだ。

 そのトリステインだが、中央にはこれと言った動きがなかった。
 いや、動きようがないと言うべきか。
 アルビオンへと援軍を送るべきか否かは、論議されていなかった。要請が届いていないこと、下手に騒ぐべきでないことから、マザリーニらもアルビオン滅亡後を睨み、根回しの時間に宛てている様子である。
 『通信教育』こそなくなったが、週一便のやり取りは続けられていた。マザリーニやアンリエッタからの手紙が毎週届くので、トリステインの状況は大凡知っている。
「新造艦、かあ……」
 代わりに動き始めたのが、トリステイン空海軍である。
 陸軍も動員はせねばなるまいが、時期が早すぎると単なる金食い虫、そうでなくても低いと見られる継戦能力を食いつぶされてしまうことになる。しかし空海軍は、ある程度先を見ておかねばならない。来月フネが必要だからと作り始めても、戦列艦などは間に合わないのだ。
 セルフィーユのような小国では耐用年数を見ながら更新するにしても、基本的には壊れるまで使い倒して元を取る。だがアルビオンを筆頭に、大国は全く逆にまだまだ使えるフネを売り払い、最新鋭艦に入れ替えるのが普通だった。技術者集団である造船所の練度も維持せねばならないし、新たな戦訓から現役のフネが急速に陳腐化してしまうこともある。国に余裕がある、もしくは余裕を見せねばならない大国の論理とも言えようか。
「お金は大丈夫なのかな?」
 手紙には、退役予定の艦を残し、年一隻のみを新造していた戦列艦を含め新たに数隻の大型艦を起工したとある。急遽組まれた予算は王家の私的な財産から拠出されているようで、苦しい懐事情が伺えた。敵わぬまでも、少しなりとも差を埋めておかなくては耐えきれる戦ではないのだと、トリステインも動き始めているのだろう。
 ……もう少々時期が早ければアルビオンから買い入れる手もあっただろうが、そこは卵が先か鶏が先か、矛盾に満ちた問いかけとなる。
「陛下、失礼いたします!」
「うん?」
「ラ・ヴァリエール公爵閣下の先触れが到着されました。
 お忍びのご様子であります」
「……!
 私が直接、応対します」
「御意!」
 手紙を引き出しに収めて鍵を掛け、身だしなみを調える。
 予告無しのご登場だが、この状況では仕方あるまい。
 先導されて赴いた応接室で跪いていたのは、公爵家筆頭執事のジェロームであった。
「リシャール陛下、突然の訪問をお詫びいたします」
「ジェローム殿、お久しぶりです。どうぞおかけください。
 ……お急ぎかとお見受けします」
 ジェロームは失礼をしますと書類を取り出し、リシャールへと差し出した。
「明朝には旦那様もセルフィーユにご到着なさいますが、先にお渡しせよと預かって参りました」
 ちらりと読めば、五百万リーブルまでの小麦なら即納できるので、必要量を協議されたしと、公爵の直筆で書かれてある。丁度今は春の麦を市場に出して、備蓄を入れ替える時期だった。
 公爵には、こちらが何をやっているのかお見通しらしい。
「ではご到着までに、数を出すようにします」
「畏まりました」
 カトレアにも手紙を預かっているというので、そのまま城に泊まっていくように勧め、ジェロームを送り出す。
 麦の必要量はフレンツヒェンとマルグリットに一言告げて、そちらで決めて貰う方が引っかき回さずに済むだろう。
 五百万リーブルの麦全部は買えないし、転売で利益を得るなど以ての外だが、そのあたりは二人が上手くやるはずだった。

 明けて翌日、リシャールも政務を少し減らして時間を作り、ラ・ヴァリエール公爵を王政府に迎え入れた。
 入り口で黙礼して静かに迎え、謁見の間さえ使わずそのまま執務室へと二人、足を運ぶ。カリーヌ夫人もこちらに来ているが、直接城へと向かったとのことだった。
「即位からこちら、まともに話が出来る状態ではなかったからな」
「ええ、色々と……」
 人払いはしてあるが、状況が状況だけに、フレンツヒェンらには手に負えない知らせや変事が起きた場合は遠慮なく入室するように命じてある。
「ともかく、トリステインの方は心配するな。
 鳥の骨めも手打ちに成功したようだし、夏以降は貴族院まわりも静かなものだ。
 次はアンリエッタ殿下の御即位が焦点となろうが……」
「それどころではない、と?」
「うむ。
 麦の話は口実だ。
 鳥の骨は戦列艦の新造を二つ返事で了承し、廟堂にて軍の後押しまでしたと聞くし、お主はしばらく話を聞かぬと思ったらアルビオンに足止めされ、帰ってきたかと思えばそれでも懲りずにまたフネを送り込んでいるという。
 ……お主、何を掴んでいる?」
 義父のところまでは、アルビオンの状況が伝わっていないのだろうか。
 いや、そうではないだろう。
 公爵は大凡を把握しているはずだ。現地の状況を知る上に、更にはマザリーニと同調しているとしか思えない義理の息子に、直接確かめに来たのかもしれない。
 リシャールは、先の会談でマザリーニと交わした内容に加え、御前会議の様子も併せて伝えた。
「それにしても、トリステインからの援軍すら拒否などと……。
 そうか、もうそこまで状況は差し迫っていたか」
「はい。
 戦力としては言うまでもなく本国艦隊が奪われた時点で王国側は翼をもがれたも同然なのですが、それを支える経済力として、取り込まれた諸侯が今後影響してくると思われます」
「革命ならば、常であれば短期決戦を目指すところが、中長期で安定した戦力を維持できるのだな。
 ふん、貴族連合とはよく言ったものだわ。
 もしかせずとも、アルビオンの滅亡は確定か……」
「ジェームズ陛下もウェールズ殿下も、そのように判断しておられます。
 諸国会議での決定が意味を持たぬと言うのに、それでもなお、トリステインに火の手が移るのを少しでも遅らせようとされています」
「であろうな。
 現テューダー家が滅びようと、アンリエッタ殿下がご健在であれば、新たに家を継ぐ者をトリステイン王家から出すことも出来よう」
「あ……」
 失念していたが、アンリエッタはジェームズ王の姪にあたるとは、そのような意味にも取れる。つまりテューダー家は、後事をトリステインに託すだけの理由があるのだ。仮に王家が滅びても、何処の馬の骨とも知れない遠い縁戚がしたり顔で玉座に着くのではなく、姪という近しい親族が家を再興してくれると信じているからこそ、自らを楯にしてトリステインを守ろうと努力もできるのだろう。
「ともかく私とセルフィーユは、アルビオンの滅亡を一日でも長く引き延ばす方針です。
 義憤に駆られた若造が友情の為に国を傾けてまで支援をすると、言い訳は用意しておりますが、さて……」
「フン、下手な美談だが、受けは良かろうな」
「マザリーニ猊下はもっと直接的にトリステインを守るため、静かに準備を始めておられます。
 しかしこちらとは逆に、ガリアかゲルマニアの援軍を確実に引っぱり出すまで表だって事を構えるわけにはいかないそうです。
 ラ・ロシェールに入港する三色旗を掲げた商船には、通常の臨検は行えてもそれ以外の理由で足止めや捕縛は難しく、空海軍も解っていながら見逃しているとか」
「なるほど、それでお主はアルビオンを支援して、少しでも時間を稼ごうと足掻いておるのだな?
 ……む、トリステインは今手を出せば少ない余力が吸い取られ、肝心の時に力が入らぬと鳥の骨は見たのか。
 確かに下手な介入は泥沼への一歩になり兼ねぬな、合点がいった。あ奴が狙うは短期決戦か……」
 何やら一人頷いた公爵は、あれこれと考えている様子だった。
「……アルビオンの意向に逆らえぬ小国が支援したところで、時間を稼ぎたいトリステインは応援も抗議も出来ぬし、知らぬ存ぜぬで通すがよいのか?
 しかし、叛乱勢力も王家打倒は掲げているが、未だ建国したとは聞かぬ。
 いや、そこが焦点か?
 第一、トリステインが滅べばセルフィーユは……」
「はい。
 ……トリステインが滅べば、セルフィーユは連座せざるを得ません」
 ふむと我に返った公爵は、片眼鏡の位置を直してリシャールを見据えた。
「見捨てても良いのだぞ?
 お主は一度、トリステインに見捨てられておるからな、誰も文句は言えぬ」
「いやですよ。
 そんなことをしても、セルフィーユの首が早く締まるだけです」
「そうでもなかろう。
 ツェルプストーなど、お主を快く迎え入れてくれるやもしれんぞ?」
 あの御仁なら面白がるかも知れないが、事態はそのような問題ではない。
 新教徒のことは、如何に義父と言えども秘密にしておかねばならなかった。
「そう言えば、公爵様はどうされるのですか?」
「しばらくは鳥の骨同様、動けぬな。影響が出過ぎる。
 挑発されたとて自重せねばなるまい。……下手な手出しをして戦端が開かれれば、援軍を出すのと変わらぬ状況となろう」
 トリステインの場合、最終的には相容れないと分かっていながら時間を稼ごうとしているのに自ら片足を踏み込むことも出来ず、先手は悪手となる。
「だがアルビオン王党派の降伏か滅亡の後、叛徒どもは軍の再編に時間を取るはずだ。
 そこで一気に動くのがよかろうが……東の端では、勝手働きも出来ぬな。
 それに睨み合いも善し悪しだ。
 戦費だけが積み重なって共倒れでは、洒落にもならぬ」
 今日来るか、明日来るかとフネと兵隊を揃えて待つのはいいが、それが何ヶ月も何年も続けば、先に根を上げるのがトリステインでないという保証などない。
 だからと短期決戦もそれはそれで困るが、戦のはじまる直前に合わせて最大限に軍を揃えるもっとも大きな理由は、経済的な限界なのである。
 短期であれば、トリステインも十二個ある常備連隊の完全充足に加え、諸侯軍を召集して数万の軍勢を揃えられるだろうが、相当な無理が必要だ。ゲルマニアなどは皇帝軍の公称十万人、これは戦時に召集される諸侯軍や、予備の兵力一切を含まぬ数である。国力の差とは、少々の努力で埋まるものではなかった。
「お主にトリステインの面倒まで見ろとは言わぬし、大体恥ずかしくて言えぬわ。
 だが……」
「ええ、もちろん。
 今のセルフィーユは、私にとって『我が国』ですから。
 それに私などより、家臣たちの方がずっと張り切っていますよ」
 避けて通れぬ目標が出来ましたからと、リシャールはぐっと両手を握って見せた。

 結局、セルフィーユで現状出せる最大限の金額を投じて百二十五万リーブル分の小麦をラ・ヴァリエールから買い取りたいと、フレンツヒェンらより進言があった。年明け、各地の徴税が始まってからは、戦乱……いや、アルビオン滅亡の影響で確実に高騰すると断じたらしい。
「どちらかと言えばアルビオン向けではなく、国内向けの意味合いが強いのです」
「飢えることがないなら、民はついて来ますよ」
「それも道理ですねえ……」
 義父母の乗った竜篭に付き従って麦を取りに行く『サルセル』を見送ると、そろそろ『ドラゴン・デュ・テーレ』の戻る予定の日となっていた。
 しかしその気配は一向にない。
 だが不思議と、沈んだとか拿捕されたという心配は、誰もしていなかった。
 ラ・ラメー艦長のことだから、上手い理由を付けてロンディニウムまで足を伸ばしているのだろうと思いたいところだが、さて……。
 リシャールという手綱もしくは重石がない分、自由にやっているのだろうが、見敵必戦の意味を取り違えるような猪武者でないだけに、逆に何をやっているのかわからないのだ。
 前回の外遊と同様に、戦闘を避けて港で出航時期を待っているだけならいいのだがと、執務室からでは見えぬアルビオンの空をリシャールは思いやった。




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